逆寅次郎はタナトスを抑えられるか?

大阪城内に火を放った飯塚練作の逸話も残る?大阪城内の伝説と謎

大阪城は8階建て構成。

 

 

中に入ると「大阪城の伝説と謎」というパネルがあった。

 

 

 

———————————-
明応5年(1496)、本願寺八世蓮如によって大阪御坊(石山御坊)が草創されて以来、織田信長と本願寺との石山合戦、豊臣秀吉の大阪築城、大阪冬の陣・夏の陣、徳川幕府による大阪城再築、戊辰戦争による城中大火と、ここ大阪城の地は度々激動の歴史の舞台となった。そのため、大阪城に関しては、現在にいたるまで様々な伝説が語られ、またこんにちでも多くの謎がのこされている。ここではそれらのうち、主要なものをイラストと写真で紹介した。
———————————-

なるほど、色々な伝説があるみたいだね。

 

 

人面石

獣面石ともいわれる。本丸の東北隅。鬼門の方角にあたるため、災い除けに人間の顔をした石を石垣に積み込んだという。

 

豊公手植の樟
現在の天守閣の正面南側に、天正11年(1583)豊臣秀吉が大阪城を築いた際、自ら植えたと伝えられた樟があった。慶応4年(=明治元年、1868)正月9日、官軍に攻められた大阪城は台所付近から火を発し落城したが、その折樟も火をあびて枯死してしまった。
現在はわずかに根を残すのみとなっているが、明治31年(1898)第四師団の司令官をつとめた陸軍中将、小川又次がこれを惜しんで二代目の樟を植え、同時に「杼樟之記(よしょうのき)」と題した記念碑を建てた。

 

「杼樟之記」の写真は、このサイトにあった。

 

大阪城② | 爺爺のつれづれ日誌
https://ameblo.jp/shuichiroh/entry-12126849066.html

 

大阪城の周辺にあったかな…見落としてしまったかも。

 

 

 

 

竜虎石
桜門両脇の石には、雨がしとしと降る日に、竜(向かって右)・虎(同左)の姿が現れるというが、実際には、東方を青龍、西方は白虎が守護するという中国の四神思想に基づく名称と考えられる。

 

 

黒門
豊臣時代、大阪城の惣構(そうがまえ )から奈良街道の出入口に黒塗の門が建っていて、一般に”黒門”と称され、江戸時代以降も地名としてその名が残った。昭和20年(1945)の空襲で焼失した一心寺(天王寺区)の表門(黒門)は、これを移築したものと伝えられていた。

 

そういえば黒門市場って大阪にあったよなぁ。

秀吉ゆかりのスポットだったんだ。

今度、黒門市場に行った時に、秀吉ゆかりのスポット等があるのかを意識して探ってみようかな。

 

他にも、たくさんの伝説が残っているみたいだね。

 

 

残念さん

慶応4年(=明治元年、1868)正月9日、大坂城に進撃してきた薩長軍に対し、無血開城を潔しとしない幕臣飯塚練作らは城内に火を放ったという。城を枕に自害し果てた飯塚らを武士の鑑と讃えた薩摩・長州両藩の有志が同年7月に建立したものが「城中焼亡埋骨墳」の石碑で、「残念塚」・「残念さん」と呼ばれて、どんな願いもかなえてくれる神様として民衆の信仰を集めた。

 

 

大手門控え柱謎の柱継ぎ

大手門控え柱二本のうち南側のものは、上下の木材を、南北両面は「殺ぎ継ぎ」、東西両面は「蟻継ぎ」という方法でつないである。古材の下部が傷んだため、後世修理の際、腕自慢の大工が施したのであろうが、一見不可能としか思えない、不思議な継ぎ方となっている。

 

 

秀頼胎衣松

江戸時代の西大番頭小屋書院の庭には、高さ一丈(約3m)に過ぎないのに、横は十間(約18m)にも及ぶ巨大な松があり、秀頼の胞衣(胎盤)を埋めた標の木とされた。地面からわずか三、四寸(約10cm)離れただけの地をはうような枝ぶりで、船の形に似ていたというが、ある時主人の命令で番士が枝を切ったところ、夢に秀頼が現れて二度と再び枝を切るなと告げたという。以来、毎月1日、15日、28日に神酒を供えるのが恒例になったと伝えられる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

管理人:逆寅次郎
東京在住のアラフォーのおっさん。大学卒業後、出版業界とIT業界で、頑張ってサラリーマンを15年続けるも、他律的業務と人間関係のストレスでドロップアウト。日銭を稼ぎながらFIREを夢見る怠惰な人間。家に帰っても家族もおらず独り、定職にも就かずにプラプラしてるので「寅さんみたいだな…」と自覚し、「でもロマンスも起きないし、1年のうち誰とも喋らない日の方が多いなぁ」と、厳密には寅さんとはかけ離れている。だけど、寅さんに親近感があるので”逆寅次郎”として日々を過ごし、孤独な独身者でも人生を充実させる方法を模索しています。