「あきらめる(諦める)」ことは「明らめる」ことでもあるので悪いことではない
鎌倉時代、中国で修行をしていた”道元”という禅僧が、
その宗教の主経典「修証義」は、最初に「生を明らめ死を明らむる
ここでいう”明らむる”は、俺らが使ってる“あきらめる”とは、
「明らめる」とは、「断念する、放棄する、放り出す、
その教義のルーツは、釈迦の時代まで遡るそうや。
お釈迦さまの生まれた国-シャカ国は、
滅亡の直前、
でもお釈迦さまは、「釈種(釈迦族)は今日、
一国の運命は個人の力で左右できない。
あきらめるべし。
それが、
法話 十三仏(釈迦牟尼仏)―その4 釈迦族滅亡― –平成23年7月–【曹洞宗 正木山西光寺】
とかで詳しく解説されてる。
つまり仏教でいうあきらめは、「明きらめ」「諦め」。
昔、俺はチャンスを逃したかもしれない。行動しなかったことも多々あった。
だから結婚できず、いい年をこいて独身なのかもしれない。
だけど行動したら自分だけでなく、相手も傷つけていた可能性がある。
釈迦と同じく、というと僭越千万だけどな、明らかにしていたケースもあるんだよ。
追いかけても手に入れるのが難しい賭けに、
明らめる、
だから悔いはない。
明らかになったのであれば、諦めて、次の一手を考えて行動するしかない。