綺麗事を振りかざす正義マンへの嫌悪感について青汁王子とDaiGoの対談を観たらその正体が少し判った
2011年3月11日、東日本大震災。
俺は東京のとある会社で勤務中で、机の下に隠れ、怯えながら揺れが止まるまでじっとしていた。
自分の部署には、福島県出身の人がいた。
地震から数日後、俺はその人を怒らせてしまった。
たった一言の発言で、激怒させた。
それはここに記載することはできないが、不適切な発言ではあった。
俺はひたすら謝った。
どう考えても俺が悪かったからだ。
被災者といっても、実際に大きな被害を被っている人と、東京で帰宅難民になった程度の自分では、程度が違い過ぎるし。
深刻さの度合いも違う。
俺は深く反省し、その話を他の人にもした。
そうしたら、その他の人、それを仮にYにしよう。
Yも激怒した。
俺の発言を糾弾し、徹底的に非難された。
俺は福島の人を怒らせてしまった話を、もう他の人にするのをやめようかと思った。
しかし、友人のSにもその話をした。
そして共感してほしかった、味方になってほしかった。
福島の人に激怒されたのは仕方なかったけど、なんでYにまでそこまで言われなきゃいけないんだって、思ってた。
マーク・トウェインの名言にもあるだろうよ。
マーク・トウェイン『友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる。』 | IQ.
ってな。
だから俺はSに言ったんだ。
あまり記憶は定かではないが、確か「山本太郎みたいな、本当に原発問題に真摯に向き合ってる人が、原発問題に対して無関心な人や何もしていない人を糾弾するのはいいにしても、特に何もしてない人が偉そうに正義感を振りかざして自分を否定する資格はないと思うんだけど」みたいな話をしたんだ。
すると友人の反応は違っていた。
「原発に対して関心があるとか無いとか、正義感を振りかざす資格があるとか無いとかに関わらず、被災地の人とか他の人に原発の話をして不快な思いをさせる逆寅次郎君が悪いよ」と、戒められたのよ。
確かに、そうかもな。
30代後半になった今は、自分の過ちを身に染みて理解することができた。
ただ、まだ消えてない感覚、感情はある。
当事者じゃない人に、徹底的に非難される嫌悪感。
お前は俺と同じなのに、どうして自分のことを棚に上げて、俺の人間性を否定できるんだ?という感情。
それはまだ残っていた、10年経っても、心の奥底に。
そしてたまたま、自宅で作業しながら青汁王子のYoutubeを観たきっかけで、その感情が呼び覚まされた。
こんな対談があった。
すると、Daigoがこう言ってたんだ。
犯罪を犯した人でも、社会に更正の機会を与えるべきだ。犯罪者の職業訓練所や更正施設を作るべきだ。
でも、じゃあ彼らの家の近所にその施設ができますってなったら、猛反対する。
こういう、モラルや正義についての言動不一致みたいなのを”NIMBY(Not in my backyard/うちの裏庭ではやらないで)”って言うみたいだ、勉強になった。
モラルや正義は口では振りかざすんだけど、実際の行動が一致していない。
そうだ、これだ。
福島の人に激怒されたのは判る。
でも、Yにも激怒されて、モヤモヤしてた自分の感情の正体はこれだった。
いわゆる「NINBYのくせに上っ面の正義感で人を非難するな!」って感情。
「お前は俺のモラルや人間性を否定するけど、お前はそんなに立派なのか?行動できるのか?NIMBY症候群を乗り越えて誰かの為に奉仕できるのか?」と、俺が当時のYに言いたかったのはそれだった。
日本だとこういう例かな。
典型的な「NIMBY」の南青山の児童相談所問題 ビジネス、今日のひとネタ | LIMO | くらしとお金の経済メディア
いやでも、正義やモラルを振りかざすことで、それが大きな声となって渦となって、政治や社会を動かすことだってある。
だから、SNSとかで「これは間違ってる!」「なんでこんなことが起きるんだ!」と、声高に何かを主張することは、必ずしも悪いことではないとは思っている。
だけどそれを、殊更に他人を否定・非難するために用いるのは、言葉の暴力だと思うし、品性の低い行為だと思っている。
「ディスっちゃったけど、実際に自分は、どうだろう?」と、「自分の近所に、元犯罪者の施設とかが出来たらどうだろう?」「原発ができたらどうだろう?」「ゴミの処理施設とかができたら、どうだろう?」と、自分の胸に手を当ててほしい。
自分もNIMBY症候群であることを自覚するかもしれない。
誰しも潜在的なNIMBY症候群の可能性がある。
だから仮に、問題発言をした人がいても、そこまで人は人を非難できるのか?
二人の動画で、おそらく名前は出していなったけど、坂〇忍のことが触れられていたと思う。
一人の人間を徹底的に糾弾して社会的な悪としてラベリングする。
だけどそれだけでは、問題の解決にはならないし、観ていて不愉快なんだよな。
そういう発言が生まれてしまった社会背景を分析するのが、報道番組、ジャーナリズムのあるべき姿じゃないのかい。
だから「自分もNIMBYかもしれない」という自己認識があれば、正義を振りかざすときも、他人に対する言葉の暴力に終始せずに、優しさを持って接することができるだろうし。
問題をより深く考えることができるはずだろうし、謙虚になれると思うな。
モラルや倫理を内面化するのはいいことだろうけど、それで強くなりすぎた正義感で人を傷つけたりしないよう、このNIMBYはブレーキとして子どもにも教えるべきだな。