何かに共感したときに自分のコンプレックスを無意識に抑圧して現実を直視しない欺瞞行為が行われている
孤独な独身者の自尊心や自己肯定感は危うい。
感謝や承認される機会が少ないからな。
じゃあどんな風に精神の安定を維持しているか?
それについて語ろう。
まず「抑圧」と「共感」という概念について、説明したい。
共感はなんとなく判ると思うから、抑圧の方な。
“抑圧”ってのは、ネットで調べたら、
心理学で、不快な観念や表象・記憶などを無意識のうちに押し込めて意識しないようにすること。
だってさ。
だがしかし、この「抑圧」と「共感」は、一見すると人間の別の感情とか心理的機制のように思える。
だが実は、それぞれは別ではなくて、この二つの心理的作用は融合し、共時的に訪れる機会が多々あることを強調したい。
本からの一例を紹介しよう。
この一体化の心理のメカニズムとしては、フロイトの挙げた愛の対象選択のタイプで言えば、自己愛型の対象選択ということになる。
愛することは相手と同一化し、合体し、一体感を持つことだという心理である。さらにこれを分析すれば、このメカニズムとして投影同一化のメカニズムを語ることになる。孤独感を抱いた人物が捨て猫に出会う。この子猫も自分と同じようなさびしい、哀れな身の上だと思う。この心理を投影と言う。
彼は捨て猫を家に連れて帰り、かわいがる。彼は自分の孤独を投影した捨て猫に同一化して、捨て猫の心を満たすことで自分の孤独を癒す。
これらの一連の心理過程を投影同一化と呼ぶ。
(Imago 1993 vol.4-13『恋愛の生物学』p31)
ここで描かれているは「投影」と「同一化」についての話だけどな。
まあ「投影」と「共感」は、それぞれ似たような心理的作用で程度の差ぐらいしかない(”投影”の方がより強く相手に共感している)だろうから、同じようなもんだとして話を進める。
つまり共感っていう感情的行為が発生する際、その対象への同一化も行われているってことね。
失恋ソングを聞いて、その歌の世界で展開されている美しいラブストーリーだとか思い出に共感し、傷心した心を慰める行為とかもそうなのかもな。
また、どうして「宝くじで6億円当てた中卒無職男性の現在に衝撃 「1年で3億円散財して…」 | ニコニコニュース」だの、「宝くじで363億円を当てて不幸に、当せん男性が語る『悪夢の 5年間』」だの、宝くじが当たって不幸が訪れた的なニュースは、探せば簡単に見つかるのによ。
「宝くじで経済的余裕を得て幸せになった」「宝くじで一転、幸せになった」という話の見出しは、少なくないか?
「宝くじ 幸せ」等で検索しても、宝くじで幸せになった人間のエピソードはなかなか見つからない。
もちろん、それは単に「貧しい人の嫉妬心を喚起する」「身の危険が及ぶ」という理由で語られないだけかもしれない。
だがこの現象は、資本主義が自らの残虐性を隠蔽するための虚偽意識、イデオロギーだと思うんだ。
お金の残虐性を隠蔽するため、「宝くじを当てても幸せになるとは限らない」というイデオロギーを植え付けることで、社会全体で、特定の防衛機制の実践を推進していると俺は考えている。
それは別に、誰かによって意識して行われる場合もあるけど、無意識に機能しているケースも多々あるな。
「不幸なる人々は、さらに不幸な人々によって慰められる。」というイソップの名言があるように、不幸な話はカタルシスをもたらすことがある。
それは「佐藤蛾次郎が演じる源吉のメシウマ的感情はルーザーであるという自己認識から逃げている(男はつらいよ・第1作)」でも話したな。
まあそんな例を挙げなくても、人の能力自慢、生活自慢、幸せ自慢は…聞くに堪えない場合が、一度はあったのではないか?
嫉妬心を喚起し、「自分はこの人より劣った生活を過ごしている」といった自意識を提供する場合がある。
正月に実家に届いていた年賀状をふと何枚か見た時、子どもの成長の様子の写真を収めた、幸せそうな家族写真が入っている年賀状を見て「モヤッ」とした感情が想起したことはないか?
これはソロあるあるでもある。
「幸福な話のみで構成される」文学や映画が、もしあるなら教えてほしいな。
友人に聞いたらスウェーデンの「やかまし村の子どもたち (リンドグレーン・コレクション) [ アストリッド・リンドグレーン ]」という本を教えてくれた。
映画のDVDはプレミア価格になってるな、まだ観てないけど。
話を戻そう。
この逆転現象、マネーによって身体に作用するあらゆる欲望が満たされる資本主義社会が構築されているにも関わらず、宝くじを当てても不幸になるという話が礼賛される。
なぜかマネーは不浄なもの、汚いもの、金持ちは天国に行けないといった言説が流布しているか?
マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神改訳 (岩波文庫)」はまだ読んでないが、マルコによる福音書10章25節に「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」みたいなことが書かれている。
だからキリスト教と資本主義が相性がいいのは、キリスト教の教義が資本主義の残虐性を抑圧したり隠蔽するためのベールとして機能しているからではないか?って、思うんだよ。
そしてもう1つ、個々人の「同一化」という心理的機制も、精神の安定に関わっていると思われる。
例えば「金を持ってないけど楽しそうに人生を過ごしている存在」という、資本主義社会においては”弱者”に相当する対象に同一化することで、自らのコンプレックスを抑圧し、安定的な自我を獲得する。
目を背けただろ?
自分の冴えない現実を穴埋めするため、何か共感し、同一化し、安堵した。
昔の曲だが、ケツメイシの「さくら」というPVを見て「いい曲だな~」と、感動している。
でもそれを観て感動したのは「なぜか?」と問うてみるんだよ。
「ああ、最終的に別れてしまったけど、悪くなかったな…」と、思い出に浸って、自己憐憫。
でも結果としてはルーザーなんだよな。
このPVでも萩原聖人と鈴木えみは別れちまったんだから。
こういう音楽を聴いて同一化して、自分の恋愛も美談として美化する防衛機制を行う。
最近の曲なら川崎鷹也の「魔法の絨毯」でもいいな。
「お金もないし♪力もないし♪地位も名誉もなにもないけど♪君を守りたいんだ」みたいな。
その欺瞞に疑問を問うてる人もまあいたわな。
お金も力もないし名誉も地位もないけど、君を守りたい的な内容で、えっどうやって?と思った。自分で自分を守るよ。 – Togetter
俺はこの曲を聴いて鳥肌が立った、嘘臭くて。
でもこんなにも再生されて流行っているということは、この曲に共感して、同一化して、自分の経済的コンプレックスを抑圧して、金がなくても君を守れると安堵し、精神的支柱にしている人が大勢いるんだと推測している。
自律し、確固たる信念を持った自我ではない。
同一化によって得られた自我。
もはやそれはアイデンティティではないと思わないか?
サカナクションが言うように、写し鏡、ショーウインドウ、隣の人と見比べて、それがアイデンティティだと思ってるようだが、欺瞞だった。
別に「あの人みたいになりたい」という同一化を否定しているわけじゃない。
それで人生を頑張れることだったある。
逆寅次郎として、寅さんの映画は何本か観ているが。
現実は、寅さんのようなハートウォーミングな出来事は極めて起こりにくい。
経済的弱者としての寅さんが、ロマンチックな恋愛模様を繰り広げることで、観客は資本主義社会によって生み出される諸々のコンプレックスや自意識を抑圧している。
「寅さんが好きな人は経済的なコンプレックスなどを抱いている」と思う時がある。
辛い現実を抑圧してくれる機械装置、それが映画の魅力でもあるんだけどね。
現実から目を背けるのは悪くないし、自分も現実逃避のメソッドについては色々と語っているが。
それを続けても最終的に問題の根本的な解決にはならないし、満たされないケースが多いんだよな。
フィクションをまるで現実のように認識しても、結局は欺瞞行為なんだよ。
名探偵コナン君のように、真実を直視することの方が大事なんじゃないのか。
なんか最初のテーマと結論がずれたけど、まあいいだろう。
孤独な独身者だろうが、愛に満ちた家族世帯だろうが、無意識の精神的欺瞞行為を行って、精神の安定を図っている。
でも、自分を守るための欺瞞行為はほどほどにして、欺瞞的防衛機制を振り払って、辛い現実を認識して、そこから行動しないか?