賭博黙示録カイジ1巻でカイジがベンツのエンブレムに悪戯をしてしまった理由について私見
賭博黙示録カイジ1巻で、すごい突き刺さる名言があった。
金を掴んでないから毎日がリアルじゃねえんだよ。
頭にカスミがかかってんだ。
バスケットボールのゴールは適当な高さにあるから、
みんなシュートの練習するんだぜ。あれが100メートル上空にあってみろ、
だれもボールを投げようとしねえ。今のお前がそうだ・・・・!
届かないゴールにうんざりしてるんだ。毎日いろんな物を『見』はするだろうが、
全部ショーウィンドーの向こう側だ。
お前には届かない・・・・その買えないストレスが、
お前から覇気を吸い取る。おまえ外車に悪戯してたろ。あれなんかその典型的表れだ。
お前はベンツを見て欲しいと思っても、真っ直ぐ自分の『もの』にしようと考えられない・・・・
ハナっからあきらめて・・・・あげく・・・ケチな悪戯をして回る。
誓ってもいいがもしお前が今1千万持ってたら・・・あんな悪戯なんかしねえよ・・・!!
勝てっカイジ・・・!勝って大金を掴め・・・!
これほんと、いい言葉だな~しかし。
まあ現実では、エスポワール号みたいな違法カジノ客船なんかに乗る機会なんてないだろうから。
大金を掴む方法、となると、限られてる。
単純に考えると「割のいい仕事を手に入れる」ことだけど。
そういう仕事の1つの共通点を、見つけた。
それは、
人を感動させるヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)を作ること
だ。
夜、皆はどこで、何をしている?
自分のいる場所には「電気が点けてある」んじゃないのか?
電気、照明、キャンドル、ラバーライト、オリエンタルライト、ともし火、キャンプファイヤー、灯台から出る光、ミラーボールに反射した光、街燈、ネオン、花火、パチンコ屋のレーザーの光…これらは全て“人工的な光”だ。
“天然”じゃない。
太陽光のように、自然な光ではない。
だから夜、自分が見ているもの全ては“ヴァーチャル・リアリティ”(仮想現実)と言える。
人工的な光、あるいはその光に反射した物体は、“リアル”(現実)なんかじゃない。
“文明の利器”というフィルターを通して見ている“虚像”。
“現実”は「真っ暗」で、「何も見えていないはず」なんだよな。
そう、だから照明デザイナーだの、インテリアコーディネーターだの、テレビ番組の『大改造!!劇的ビフォーアフター』だの、展示会のブース設営だの、オシャレな店をプロデュースだの、ディズニーランドのパレードで照明をどう駆使するか考える人だの、そういう仕事に携わっている人達がやっているのは「ヴァーチャル空間を生み出すこと」なんだよな。
決してテレビゲームだとか、映画だとか、オンラインRPGとか、昔あったセカンドライフ(今もある?)とかポケモンGOだけが、ヴァーチャル・リアリティなんかじゃない。
今いる空間も、ヴァーチャル・リアリティよ。
毎日、そのヴァーチャル空間に入り浸っているから、それが現実(リアル)だと思い込まされているけどな。
デザイナーとか、漫画とか、スマホの課金ゲームを作ってる人もそうだよな。
昔流行ったジャミロクワイの曲のように、ヴァーチャル空間の中に没入して、日々を生きている。
そんでタチが悪いのは、ヴァーチャル・リアリティは、人の死と同様に、平等に供給される機会があることだろうな。
ただ、お金の多寡によって、五感で体感できるヴァーチャル・リアリティの度合いが変わってくる。
遠藤が言うように、金があるやつはショーウインドウの向こう側にある服や料理を、全身で体感できるだろうが、カイジみたいにお金が無くてくすぶってる人間はガラス越しに見るだけしかできない。
金があるやつはベンツに乗って疾走することができる。
カイジにはそれができない。羨ましそうに眺めるだけ。
同じベンツというヴァーチャル・リアリティを体感するにも、程度が違う。
だから少しでも、その仮想現実を現実に近付けるために、エンブレムだけでも…という欲望に突き動かされたんじゃないのだろうか。