人はなぜ群れたいか?の答え→フロイトによれば群棲欲動は性欲動に内包されているから
今日は誰とも喋ってないな。
いや、”今日も”だな。
そんな孤独なソロの日常、誰かと話したい、飲みに行きたい、遊びたい。
そのような衝動が出てくるのはなぜか?について、フロイトから俺は学びを得た。
群棲欲動が個体発生してきた跡をたどることはもちろん容易ではない。小さな子供が独りぼっちにされた時に感じる不安は既にこの欲動の表出であるとトロッターは主張しようとするが、この不安についてはしかし、それとは別の解釈の方がより蓋然性が高い。この不安が向けられるのは母親であり、後になると他の親しい人物である。それは、充たされざる思慕の念の表現であって、小さな子供は、この思慕の念を不安に変えること以外になすすべを知らないのである。
独りぼっちの小さな子供が抱く不安は、「群棲の中の」誰であれ他の人を目撃しても鎮められない。それどころか反対に、そのような「見なれぬ人」の出現によってこそ喚起されるのだ。その後長い間、子供にあっては、群棲本能、あるいは集団感情など何も認められない。
そういうものが最初に形成されるのは、何人もが共有する子供部屋のなかで、また両親に対する子供たちの関係の中からであって、それも、年上の子供が年下の子供を受け入れる時に最初に感じる嫉妬心に対する反応としてなのだ。年上の子供の方は、たしかに、後から生まれた子供を嫉妬ゆえに抑圧し、両親から遠ざけ、その権利をすべて奪いたいと思うだろう。しかし―もっと後に生まれてくるすべての子供たち同様―この子も両親に等しく愛されているという事実に直面し、また、自分も被害をこうむることなく敵対的な姿勢を保つのは不可能であるという事態の結果として、年上の子供も他の子供たちと同一化するよう強制され、そのようにして、子供たちの群れの中に、集団の感情、共同体の感情が形成されるのだ。それは学校の中でさらなる展開を示す。
この反動形成がなす最初の要求は、公正さ、全員に対する等しい取り扱いの要求である。学校の中でこの要求がどれほど声高に、どれほど非妥協的に表明されるものかは、よく知られているところだ。自分はどうせ贔屓にされる立場に立つことができない、それなら、少なくともみんなの内の誰一人贔屓されるべきではない、というわけだ。子供部屋や学校の教室の中で嫉妬心が集団感情へと変換され代替されるというこの事態は、もし同じ経緯が後に他の状況下でも新たに観察されるのでなければ、ありそうもないこととみなされるところだろう。
演奏終了後に歌手やピアニストの回りに殺到して取り囲む、うっとりした婦人や少女の群れを思い浮かべていただきたい。
たしかに、お互いに対して嫉妬心を抱くことは、彼女らの誰にとっても当然の成り行きだろう。しかし、その人数の多さを前にして、またそのこととも結びついて恋着の目標には到達できそうもないという事態に直面して、彼女らは嫉妬することを断念し、互いの髪の毛をつかみ合う代わりに、統一された集団であるかのように振る舞い、称賛の対象であるその男性に共同の歩調をとって忠誠を誓い、例えば彼の髪の毛の飾りを分かち合うだけでも十分に嬉しいのである。もともとライヴァル同士であったのに、彼女らは、同じ対象に対する等しい愛を通して互いに同一化することができたのだ。
欲動が置かれた状況は、いつものことだが、様々に異なる結末を迎えることができるから、一定の充足の可能性が結びついているそうした結末が生じ、その一方で、それとは別の結末がよりありそうに見えるものでありながら、現実の状況がその目標への到達を許してくれないがゆえに起こらないとしても、われわれは不思議と思わないだろう。
『フロイト全集〈17〉―集団心理学と自我分析』p192-193』
引用が長くなったな。
この話から、フロイトは「先天的な衝動」として、群棲欲動だの群棲本能といったものを信じていなかったと思われるが。
ではなぜ、「群れたい」「仲間が欲しい」といった集団感情が、人間には沸き起こるのだろうか?
フロイトによれば、というか俺がフロイトを解釈した限りではあるけどな、群棲欲動は性欲動に内包されているからだ。
もしくは群棲欲動は性欲動が変質したものという感じかな。
それを判りやすい例、学校の例説明しよう。
大体、学校のクラス内では、第1グループ、第2グループ・・・と、男女それぞれ派閥が形成され、暗黙の生物学的ヒエラルキー(魅力があるか否かによって階層づけられる秩序)が存在しているよな。俺の学校にもあった。
アメリカンハイスクールで言うと、ジョック&クイーン・ビーとか、サイドキックス、ナードとかな。
スクールカーストはアメリカには無い?クリークが本当の分け方! | アメリカ info
そのヒエラルキーとグループ発生において、「ルックス」は間違いなく、重要因子の1つだ。
ちびまる子ちゃんでいう大野君と杉山君のような、「クラスの人気者」「イケメン」という輩が、どのクラスにも一人や二人はいたと思うんだが。そういったやつに仲良くしようとする輩がいる、サイドキックスだな。
なぜ大野君や杉山君とつるみたいと思うのか?
フロイトは、この箇所で言うところの「同一化」を行うことで、「クラスの可愛い女子とコミュニケーションできる」からであり、ちびまる子ちゃんに出てくる城ヶ崎さんのような、いい女に近づきたい目的のため、大野君や杉山君と同一化する。
それによって、ハロー効果の恩恵を受ける。
ハロー効果は、個人の肩書とか実績とか見た目とかに影響を受けて抱いてしまうバイアス、みたいな解釈が多いけどな。
これは個々人だけでなく、集団の単位でも発生する。
実際、その現象は起こったのよ。
ナードである俺の経験談だが、クラスの女子における第1グループ(かわいい女子が多いグル―プ)にいるある女子が、チョコレートをクラスの男子における第1グループ(ルックスのいい男子が多いグループ)にあげていた。
そして、その第1グループの男子の一人に、日本人の客観的な美意識基準から考えて、失礼だが「そんなにカッコよくない男子」が存在していたんだな。
しかし、チョコレートをもらうべきルックスに至っていないにも関わらず、その男子はチョコレートを得ることに成功した。
それは、クラスの人気者と同一化することで、ハロー効果を得て、自分の魅力を吊り上げることに成功したからにほかならない。
ハロー効果は学校における派閥形成に見受けられるだけでなく、政治の世界にだってある。
安倍首相とか有名人が、自民党の地方議員の応援演説に行ったりしてたよな、2021年10月の衆議院総選挙の時も。
古い話だが、アメリカン・ドリームの体現者ともいえる黒人女性のオプラ・ウィンフリーが、オバマ大統領候補を応援することで、オプラ・ウィンフリーの絶大なハロー(後光【halo】)効果がオバマに及び、オバマに投票する可能性に寄与することだってあっただろうよ。
そもそも、テレビや雑誌の広告でも、芸能人のハローを利用したものは多い。
なんか話が逸れたな。ハロー効果の話になってしまった。
「なぜ群れたいか?」に話を戻すと、それは以上の話からもうわかったはずだ。
「群れる」ことが「愛する対象に近付き、子孫を残すことに繋がる」からよ。
つまり、群棲欲動は性欲動に内包されていると言えるんだ。
別にフロイトを持ち出さなくても、「まずは出会いが大事」「恋人を見つけるには出会いを増やさないと」「信頼できる関係になってからじゃないとヤダ」いった社会的言説はいくらでもあるだろう。
また、自分の人生の経験的反復によって、性欲動の充足のための前段階のプロセスに「群れる」という行動を行わなければ、出会うこともできれば、一夜を共にすることも出来ないというのは、誰しも判っているはず。
そういった認識は、無意識的に多くの人々に刷り込まれているし、求めてる。
だから合コンやパーティ、SNS、婚活などの文化も生まれた。
まずは群れないと、性欲動を充足することができない。だから群棲欲動ってのは、性欲動のことって話。
もし、群れるステップを無視して性欲動を充足させると、それはバーバル・コミュニケーションによるリビドー充足の否認であり、つまり、個人的で利己的な手段に依拠することになってしまう。
しかしそれは社会(超自我)が許してくれない。逮捕される。
だからこそ「群れる」というステップは必須であり、多くの群れる文化が存在するのは、「目標制止された性欲動が昇華されたゆえ」とも言えるだろうよ。
よって、性欲動の充足のために「群れる」ことは必然的過程なのであり、<群棲欲動⊂性欲動>(群棲欲動は性欲動の真部分集合)であることが証明されたかな?