佐藤蛾次郎が演じる源吉のメシウマ的感情はルーザーであるという自己認識から逃げている(男はつらいよ・第1作)
今日は寅さんの映画を観た。第1作。
面白いよね、やっぱ。寅さんの口上が素晴らしい。 そんで人間的に欠点が多いところも愛着が湧く。
倍賞美津子が演じる妹・さくらに「でも、 お兄ちゃんには真面目な暮らしは無理なのかも知れないわね」と言われてしまうように、 こういうところも自分と重なる部分を感じるよね。
でもなんか、一瞬、変なシーンがあったんだよな。
それは、物語の終盤、 冬子の婚約者の大学教授が出てくるシーンよ。
そんで御前様に冬子の婚約者になる男であることを告げられて、 失意のどん底に落ちる寅次郎。
その悲しい背中を、佐藤蛾次郎(源吉)は見て、なんと… 笑っていたんだよ。
いや、源吉も、冬子のこと好きだったのよ。
だから恋敵が脱落したのは普通だと喜ぶのもわからなくも?ない。
しかし、源吉も、冬子は手に入れられず、 恋の敗北者である事実には違いない。
大学教授が冬子をゲットしたんだから。
でも寅次郎を、ニヤリと嫌な顔して嘲り笑った、 1時間19分辺りのシーンだ。
1969年の映画だけど、これは現代にも通ずるっていうか、 人間の普遍的な負の感情のような気がする、個人的な意見だけど。
なんていうか、品性の無い行為ではあるよな。
最近の言葉で言うと”メシウマ”ってやつ、 人の不幸でメシがうまいっていう、なんかみっともない行為。
そのメシウマを、 たったワンシーンで体現したのが佐藤蛾次郎であって、 それを映像作品として表現した山田洋次監督よ。
「うわぁ」っなる、このシーン。
俺は見逃せなかったな。
まだ寅さんの方がいいんだよ、まっすぐいって玉砕したんだから。
源吉は「どうせ無理だろうな」と、傷つかないように、 ダメージが小さくなるように予防線を張っておいて。
ダメだったら「そうだよな」と納得して、でも他にもダメな人、 不幸な人を見かけると「あいつもダメだった、 やっぱり冬子は手にいれられなかった」と、 まるで自分の不幸を雲散霧消にしたいが如く、 人の不幸を嘲り笑って相対的な幸福感を得て安堵する。
でもそれは、本質を見失ってる、事実から逃げてるんだよな。
いや、人間味あるよ、これは。
映画としてはありかもしれない。
これは今でも、ありとあらゆるところで行われている、 人間の防衛機制みたいな感じでもある。
いやお前、フラれたんやで? 君はもうお前の目の前にいないんだろ?って話よ。
どっかの大学教授だかエリートだか知らねえが、 お前より将来性や甲斐性のある男のとこに行ったんだよ。
それを、何か美化して、桜だの香りだの、 土手に舞い散る桜の花びらに黄昏を感じて感傷に浸ってる萩原聖人 よ、悲劇の主人公になったつもりか?
悲劇の主人公っていうか、ルーザーなのよ。ルーザー・ バンドロスなのよ。
最近だと川崎鷹也の「魔法の絨毯」って曲もそうだよな。
580万回も再生されてる。何か街中で聴いて「 2021年にもなって、何言ってんだ?」って思ったよ俺は。
「お金もないし♪力もないし♪地位も名誉もなにもないだけど♪ 君を守りたいんだ」ってな、なんか、 寅次郎とか源吉みたいな男が考えそうな発想じゃねえのか?
違うんだよ。いや、100%だとは言わないが、 冬子を手に入れられる確率が高いのは、残酷だけどやっぱり、 大学教授なんだよ。医者であり弁護士であり、 大手商社マンであり外資系金融マンでありGAFA勤務マンなんだ よ。 丸の内とか有楽町とか高輪ゲートウェイ歩いてる高身長のツーブロ ック野郎なんだよ。
youtubeで580万回再生されるミュージシャンは、 実際は広告収入でお金あるから、経済力で君を守れるんだよ。
騙されちゃいけねえ。
どうよ、俺の話は少しは、 アイスバケツチャンレジ的なインパクトを、 ここまで読んでくれた人に与えられたのではないのか?
どうやって勝ちを手にできるか、勝てる土俵はあるか、 を考えないといけない。
一過性のメシウマ、自己憐憫は、本当に一過性で効力ないし。
結局、気分は落ち込んでいく方向に傾いていく。断言できる、 本当に。
だからルーザーであることを、認めるってことが、 はじめの一歩であり、源吉がやるべきこと、 お前がやるべきことだ。